概要
カルテ 1
カルテ 2
カルテ 3
地形、歴史資源
産業、人的資源
施設、その他
歴史年表
位   置

 今から1300年以上前に、天智天皇、2の太子(高岡宮大梵天皇と呼ばれていた)が、現在の岡本集落より北東の高岡山に御門(みかど)を造営し、天皇のお付きの者23人が住みつかれたという古文書が残っております。
 さらに、聖武(しょうむ)天皇の勅命により、行基(ぎょうき)菩薩が東大寺造営にあたり全国を行脚したおり、この岡本に立ち寄られ、水晶の磨き方、壺の焼き方、土木技術の伝承等をされました。
 行基菩薩は聖武天皇を岡本に迎えられたおり、日野川が増水し天皇が渡れなくなったため、板7枚をもって橋を架け、集落から集めた着物の帯にて装飾を施し、天皇を迎えられたことから、今もなお高木神社の祭りは「帯掛け祭り」と呼んでいます。
 このような、出来事を裏付けるのは古文書だけでなく、高岡という地名、また、麻生集落の昔の名称は七板(なないた)と呼ばれていました。

 今から、400年ほど前、江戸幕府は参勤交代のために、街道を整備しました。1602年には東海道、さらに1603年には中山道を幕府直轄の街道としました。その後、各武家や僧侶は脇街道を整備していったと思われます。
 延宝6年(1678年)に、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)が布教のため、この御代参街道を通行したおり、八日市、岡本、鎌掛を継立所としたことから、岡本が宿場としての機能を充実させていったと思われます。


 今から、110年前の明治27年、岡本の堀井新治郎は「ガリ版」こと、「謄写版」を発明しました。近江商人の流れをもつ新治郎は、全国にガリ版を広め、特に官庁、学校には無くてはならない道具となり、コピー機が普及するまでの70年間、ガリ版は使い続けられ、単なる通信のための道具だけでなく、孔版美術としてのガリ版として花開き、日本の明治、大正、昭和の文化向上に貢献してきました。

 岡本は、蒲生町の南部に位置し、人口300人の山と田に囲まれた農村集落です。以下に、様々なデータをカルテ形式に取りまとめました。