小脇郷の歴史と伝説

蒲生野平野に抱かれた小脇郷

 蒲生野平野の朝明け

 箕作山方向の蒲生野平野に鈴鹿山系より立ち登るご来光を
東近江市下羽田町の腰越峠口の橋より拝む。

 

平成26年5月29日午前5時07分撮影



 
平成26年6月17日午前4時45分撮影


箕 作 山 と 小 脇 郷

 
箕作山南面を宿自治会館裏より写す

リ ン ク 集

          小脇郷の歴史と伝説


   
はるか大昔、我が国には大陸からの渡来人による稲作が伝え
 ら れる等のほかに、中国における群雄割拠の戦国時代となる紀

 元前4世紀から朝鮮半島を含む中国大陸より、戦乱から逃れる
 亡命者集団が歴史上主として4つの時期にわたり日本各地に相

 当人数が漂着して来ています。
   その一事例として、古事記・日本書紀には5世紀前半ころ秦一

 族等が近江の国に移住したことや、西暦668年の唐と新羅の連
 合軍により滅ぼされた高句麗の国滅亡の混乱時には、百済や

  高句麗からの多くの亡命者が日本各地に渡来し、時の政権はこ
 れを受け入れ対応していることが記されているのです。 こうした

 渡来人は、全国各地で医術、製鉄の技術、鉄製の農具、灌漑

 術、須恵器づくり等の当時の先進技術をもたらしています。     

   その亡命渡来人について、669年に男女700余人を近江蒲生
 郡に配したとし、滋賀県蒲生郡日野町から東近江市にかけて渡

 来人が配されている記録があり、蒲生野と呼ばれていた地域の
 中にある小脇郷にも高麗人たちが移住しているのです。又、そ

 れ以前の時代の証として小脇町青蓮寺付近の土中3メートルか
 ら5世紀末の瓦泉(はそう)が出土しています。又、金柱宮跡付近

 から太い柱の一部が発見されており、この直近の小脇山山腹に
 は後期の古墳2基があり、5世紀には人々が住んでいて付近を

 開拓したと考えられるのです。 此処、東近江市の小脇郷は今も
 同じように、若干の表土の下には丸い河原の石と砂が混合した

 砂礫地層となっており、元来、農耕不適の土地だったのが渡来
 人達の開拓によって稲作が出来るようになったと言い伝えられて

 います。          
  このことは現代まで、小脇郷の 「(こま)(狛=高麗人)の長者

 伝説 」 として残されているのです。
 伝説というのは、これまで生きつづけてきた人々の口から 代々語

 り伝えられるものです。そして、この伝説を物語るようにしてその
 遺蹟や跡地が残されており、小脇郷に残っている金柱宮跡、筏

 川、丁石地蔵、かまど、手水鉢、おぼん山、船岡山等
には、狛
 の長者にまつわる伝説が数多くあります。               

   このコーナーでは、これらの伝説を紹介したいと思います。 

             

  金柱の宮 


筏 川


丁石地蔵


か ま ど 石


手 水 鉢


紅糟山と船岡山






 
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太郎坊宮本殿前から小脇郷を望む 


紅糟山と船岡山