小脇郷の伝説と歴史
 筏 川 の 開 削 事 業

 
筏川のルート
・青太実線
 
   東近江市小脇町には、狛の長者が開削したと伝えられる 「筏川」 が流れています。 この川は取水口は東近江市寺町地先
  の、国道307号線から愛知川上流300メートル付近で、ここから東近江市金屋付近までは駒の
等と呼ばれていますが、

  その下流は清水町からふた手に別れており、北側が大川、南側が「筏川」という名なのです。
  その名称の由来は、

       「狛の長者が館を建てるのに永源寺奥の山から切り出した材木を筏に組んで流したから筏川の名がついた」
  という言い伝えがあります。




遠景の山並みは鈴鹿山系
 
西方の国道307号線から筏川取水口方向を撮影
   
西方の国道307号線駒井川橋から筏川取水口方向を撮影

 
筏川取水口から西方の箕作山を撮影

    又、一方では、金屋の鋳物師が鋳型(いがた)を流したことから、それがなまってイカダという川の名前になったという話もあります。
  そして、 「昔は川幅が10メートル位はあった」 という話もありますが、いずれも伝説上の話ですから、定かではありません。


    しかし、各種古書に記載されている史実に照らすと、農耕不適な砂礫の地を稲作が可能にすべく当時の土木技術等を駆
  使して開墾した渡来人による農業用水であったことには間違いないと思われます。現在にあっても、ここの土地は場所が悪

  ければ少し掘り起こすと丸いグリ石がゴロゴロと出てきて田圃の保水力が低い状態があり、大昔は稲作不適で河原同様の
  荒れ地だったことがうかがえます。
 

 

          
                   宿地区より北東方向の筏川上流       


    万葉集の 「あかねさす 紫野行き 標野行き野守は見ずや 君が袖振る」 等の詠み歌は大津に京を移した頃、大海人皇
  子らの蒲生野遊猟と額田王らの薬草摘みの時の話です。そのとおり、当時は、この蒲生野は朝廷が管理する猟場兼薬草摘

  みの標野(立入禁止区域)で、荒れ地だったのです。
  この荒れ地に配された渡来人達は小脇郷一帯を開墾し稲作を可能にするために、愛知川から用水を引く水路として筏川を

  開削したのは間違いないでしょう。

 

宿地区より西南方向の筏川下流

 


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