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金 柱 の 宮 跡
  東近江市小脇町にある青蓮寺集落の西方の小脇山山麓に 「金柱

の宮跡」 という場所があります。
 
ここは(こま)の長者が建てた仏堂跡

と言われていおり、昔の小字名は「大宮跡」 となっています。 この場

所に行ってみると、遺跡公園のよ
うで、石碑が建てられています。

                 ( 金 柱 の 宮 跡 石 碑 )
  
            金 柱 宮 跡 地 (電子国土ポータル参照) 

    この仏堂は、狛の長者の屋敷の一部にあったと言われています。
    八日市市史によると、平安時代の 「山槐記」 (「山槐記(さんかいき)」とは、平安 時代末期とな

  る1184年中山忠親の日記で、 中山忠親は平安時代末期から鎌倉時代初期の公
  卿で内大臣を務めた人物) には               

           金柱 古麻長者 持仏也

  と記載されており、 直接的な歴史上の資料となっている他、 後白河法皇の「梁塵秘
  抄」にも、同様のことを指した下りが綴られています。

   平安、鎌倉、室町時代には近在の村人が参詣に来て有名だった事と村人の信仰
 を集めていた事が伝えられています。 近江蒲生郡志では、明治までは当地に五社

 神社が有り、 『金柱宮とみなす』 となっていますが、明治42年7月5日付廃社となっ
 ています。この金柱の宮の 前には参道が真っ直ぐに伸びて八風街道辺りまであり、  

 そこには大鳥居が建っていたそうです。 今はその場所に大鳥居はありませんが、現
 在の小脇町宮集落の付近となっています。又、その屋敷は膨大な広さを有しており、

 船岡山やおぼん山はその庭の一部であったと言い伝えられています。
 そして、この仏堂に祭られていた金柱という仏像は、現在、東近江市瓜生津町にあ

 る慈眼寺の国指定重要文化財 「聖観音金銅像」 であるという説があるのです。
 その訳は、慈眼寺の仏像縁起庸約によると、西天竺の毘首羯摩(びしゅかつま) (伝説化された架

 空上の仏工)の作で、 その頃までは佐々木六角一族が安置し、 城の名も観音寺城
 とし朝夕参拝していた。 しかし信長の上洛戦で落城し、その際、家臣毛利知行が仏

 像を滋賀県愛知郡の当時天台宗東光寺(現浄土宗)に預けるべく、背負いながら多
 勢の敵に迫られ愛知郡平柳村の池に飛び込み死亡した。

 その後相当な期間を置いた慶長年中(1596〜1615)のこと、 夜な夜な光るもの
  があり、ある男が仏像を拾い上げてそれを自宅で供養していたところ、ある日僧が

  現れ、その仏像を慈眼寺に移して安置した旨が記されてあるそうです。

                
         聖観音金銅像 (高さ40.2p ・ 国指定重要文化財)
                  八日市市史等掲載

   狛の長者達渡来人が小脇郷に住み始めたのが天智天皇の大津京時代となる西
 暦669年頃からとされています。その後、約340年に亘り地域の開拓、繁栄を築い
 
 ていたところ、 大凡(おおよそ)1010年頃から佐々木六角一族の三代目となる佐々木経方の
 時代に支配下の小脇の館に住むようになったのです。 その三代後の秀義の時に平

 治の乱が起こり、平氏の天下となった20数年間は関東に流れていたものの、源平
 合戦での功績を認められて復活し、その後約400年間の安泰が続きました。
 
   しかし盛者必衰の例えの如く織田信長の上洛戦により1568年9月12日滅亡と
 なったのです。 それまでの約550年の間金柱の仏像は佐々木六角一族が祭って
 
 いたのではないか ・ ・ ・ 、 と私は勝手に想像しています。
   歴史的な資料が無く、気の遠くなるような遠い昔の話です。      
        
           
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