岡本のおもな歴史
梵釈寺(ぼんしゃくじ)
 もともと桓武天皇の創建で志賀の里にあった。変遷を経て、天和(1681〜1683)年間に領主奥田家と日野正明寺の晦翁(かいおう)和尚により現在の場所に創建された。享保13(1728)年に宇治の黄檗山万福寺の末寺となった。謄写版を発明された堀井本家の菩提寺であり、全盛期には多くの寄進をされた。

山の神、野の神
 毎年、山の神は1月4日、野の神は9月の第1日曜に五穀豊穣の祈りと感謝を捧げるため、早朝から松明(たいまつ)を先導に、五穀を携えて集落各家々の男子が参詣する。山の神のご神木は室町時代からのものであり推定樹齢650年。

6ヶ村共同旧墓地
 岡本、上、下麻生、大森、田井、大塚の共同墓地となっていた。
元禄15午(1702)年2月15日、初めて公共地にて共同墓地が設置された。これより以前は埋葬地は個人の自由であった。このようになった背景は、1613年のキリシタン禁止令のあとキリスト教禁制を徹底させる目的で、民衆を寺院に帰属させる寺請(てらうけ)制度を確立したことから、墓地の管理についても徹底していった。1750年頃から共同墓地埋葬が盛んになり、1800年前半まで6ヶ村共同墓地として利用された。現在はこれより南に新しい墓地があるが、これは大正7(1918)年に新設された。

紫香之神(しかのかみ)(岡本発祥の地)
 天智天皇の第二皇子は、これより北の丘陵地に小御門を造営し、ここを高岡宮とし皇子はのちに大梵天皇と称した。その後、聖武天皇の勅撰により、全国を行脚された行基菩薩はこの地において、仏閣を開立し、天皇お付きの者23人衆に壺焼き、水晶磨きなどを教えた。その後、23人衆は現在の岡本周辺に移住した。

壺焼谷(つぼやきだに)
 渡来人が多く住みついた蒲生。鏡山に来られた天日槍(あめのひぼこ)の一族が陶器造りを始めた。スエモノ(須恵器)を作ることから、いつかその地を須恵(現在の竜王町)と呼んだ。その一族から伝わったもの。また、聖武天皇の勅撰により、全国を行脚された行基菩薩が教えたとも伝えられる。そして、さらに、甲賀郡紫香楽(現在の甲賀市信楽町)へ伝わり、信楽焼となった。

にぎりめし
 村の境目(さいめ)すなわち境界。主要な地点に土を高く盛り上げて目印とした。この形が「にぎりめし」に似ていることから呼ばれるようになった。毎年秋に岡本の役員は境界廻り行い、樹木の伐採や、「にぎりめし」の管理を行っている。表示の「にぎりめし」は特に大きく、大字寺、綺田と岡本の重要な境界標。

伝病火葬場跡
 明治10年頃からコレラが多く発生するようになり、細菌の蔓延を恐れて設置した広域の火葬場。蒲生町内では大字畑田とこの2ヶ所。

弁財天
 現在は水没しているので見ることはできないが、古くから岡本に伝わる般若経600巻の内の150巻を奉納していると伝えられる。

庚申塚
 庚申(こうしん)の夜、ここにお供えをして、三尸(さんし)の難をよけるために徹夜で祈る習俗の名残。また、猿は丈夫な歯をしていることから、歯痛を治す神としても崇(あが)められた。三尸とは道教で、人の体内に住んでいると説く3匹の虫。絶えず人の行動を監視していて、庚申の日の夜に睡眠中の人の体から抜け出てその人の罪過の一々を天帝に告げるという。

高木神社、圓通寺
 1300年前に創建された由緒ある神社。高皇産霊神(たかむすびのかみ)行基菩薩を祀る。また、詳しい由来については神社境内の東側県道沿いに設置。圓通寺所蔵の古文書写を展示。
 岡本を中心とするこの地一帯は麻生荘(あそのしょう)と云われる。大津京を開いた天智天皇の第2の太子(大梵天皇と称す)が岡本の東山に高岡宮を開いたとされ、太子のお付きの者23人が高岡に住み着いた。壺焼きを生業とし大津京に多くを献上したと思われる。その後、聖武天皇に仕えていた行基菩薩がこの地を訪れ住まいし水晶磨き、農業、土木工事を広めた。聖武天皇行幸の折、日野川が増水し渡れなくなったので、行基菩薩は板7枚をもって橋を架け、村々から帯を集めて橋に帯で化粧をし、聖武天皇を迎えた。このことから、高木神社は行基菩薩を祀り、旧暦の4月3日(現在は4月の第4日曜)に聖武天皇を迎える祭りが高木神社大祭である。子供達の囃子で迎えることから「ケンケト祭り」、7本の帯で行基菩薩の功績を讃えることから「帯掛祭り」ともいう。
 もともと圓通寺は高木神社の境内にあった。行基菩薩が創建し、高木神社の守護寺とした。16世紀の大火により焼失し、現在の地に移った。現在は浄土宗である。圓通寺の云われについても古文書参照。


東漸寺
宝暦年間(1751〜1763)に僧霊仙により創建された。天保2(1831)年に火災で焼け、その後荒れ果てたが、梅田貞寄という人が寺の財産を守り20年あまり金を貯め、安政2(1855)年に再建した。

本陣跡
 延宝6年(1678)年遊行上人(ゆぎょうしょうにん)が布教のため、この御代参街道を通行したおり、八日市、岡本、鎌掛を継立所としたことから、岡本が宿場としての機能を充実させていった。多くの民衆の宿泊所である旅籠(はたご)だけでなく、大名の宿泊所であった本陣跡。他に荷物、人馬の継ぎ立てのための問屋場、触書(ふれがき)の高札の跡が残る。岡本宿本陣には彦根藩主が度々利用した。

平成17年1月 岡本夢プラン委員会