東海道土山宿から中山道愛知川宿手前の五個荘町小幡
を結ぶ9里(約36km)のバイパス道路のことである。
 明治以前は、「北国(ほっこく)街道安土越」
「北国多賀街道」「東海道脇街道北国越安土道」などと
呼ばれていた。
 一般には、市場を結ぶ道であったので「市道(いちみ
ち)」とか、伊勢参宮に盛んに利用されたので「伊勢道」
と呼ばれていたようである。
 現在残っている道標は、すべてこれらの文字である。
 どうして御代参街道と呼ばれるようになったか、この
名称の起こりは、江戸時代中ごろより仙洞(せんとう)
御所(譲位した天皇の御所)より毎年、正、5、9月に上
皇の代参として公卿(くげ)が、伊勢神宮と多賀大社へ
詣でた。それにならって、各宮家や、諸国の大名小名、
またその家臣たちが参詣(さんけい)のために通ったと
ころから、この名称が生まれたのである。
 昔は、観音寺城の佐々木氏は甲賀に多くの家臣がいた
ので、その人たちが利用していた。また、織田信長の安
土築城に際しては、多くの大名小名たちも通ったと思え
る。始めは、土山・安土を結んでいた道だったのだろう。
そして鎌掛(かいがけ)付近は、修験者たちの修験道場
であったようだ。
 江戸時代になり、寛永17年(1640)5月、3代将軍
家光の乳母であった“春日(かすが)の局(つぼね)”
が伊勢両宮と多賀へ代参したことがある。
 その際、伏見奉行であった、小堀遠江守(とうとうみ
のかみ)が沿道の領主に命じて、各村より人夫を集めて
峠を開き、道を広げ、橋を架けるなどの大工事が実施さ
れた。
 それより、38年後の延宝(えんぽう)6年(1678)、
現在の神奈川県藤沢市にある清浄光寺(しょうじょうこ
うじ)住職の遊行上人(ゆぎょうしょうにん)の力によ
って、街道の姿にし、八日市・岡本・鎌掛に三つの宿場
を設けた。
 何代目の住職かは知らないが、全国を布教行脚してい
たので、この道路の重要性を感じて正式の街道にしたの
であろう。


岡本宿絵図