合気道とは

合気道は、開祖植芝盛平先生(明治16年-昭和44年)により確立された、近代武道です。 「合気」とは、「人と人の気の感応・心の和」「人と宇宙の気の融合」「人間生命と宇宙生命の合一」「神人冥合」「宇宙と一体になる」等を表す言葉です。

 合気道の技は、日本武道の粋である剣術、槍術を、手刀という素手で表すものといえ、円や直線運動を中心とした、各種の基本技の反復錬磨により、その法則を心と体にしっかり植え付け、自由自在に変化出来る様に、具体的に体系立て整えられたものです。

 合気道の稽古法は、心の持ち方、呼吸法を中心とし、体の動きは無駄がなく、きわめて合理的であり、決して無理な力を使うことはしません。

また、合気道多田塾では、合気道を「現代に活きる武道」として、稽古を自身の研鑽の場として位置づけられています。

合気道で必要不可欠な概念「宇宙」と「氣」、それはヨガや密教が持つ世界観と同じものです。

私はもともと20代でヨガの専門道場に入門したヨガ出身(私のヨガの師匠のそのまた師匠は沖ヨガの沖正広導師です)なので分かるのですが、合気道とヨガは、非常に親和性のあるものであると、自身の体験を通して感じています。

ヨガの真髄は、アーサナ(対位法)を行い、ナーディ(プラーナの気道)とスシュムナー(ナーディの中でも重要な脊椎の中枢を通るもの)を浄化し、その上で、プラーナ・ヤーマ(調気法)によってプラーナ(氣・生命素)を取り入れ、心を制御し、心身の悟りを促すものです。

氣を取り入れて生命力を高めていく根幹の部分は同じですが、その アプローチとして合気道とヨガがあきらかに違うところは、合気道は「相手があってこそ成立する世界」なところです。

ネットで様々な情報を簡易に手に入れ、1人部屋に籠もって、1人で修業をして「知識的になんでも分かった気になってしまいやすい」この現代において、「相手がいなければできない、成り立たない」世界というのは大変重要な要素であると思います。

またしかも、それは「闘う相手、競争相手としての相手を必要としているではない」というところが、合気道の合気道たる面白みの真髄であると私は思うのです。

ヨガはヒマラヤの山奥で1人で修行することもできますが(もちろん普通はそんなことは簡単に出来ませんが)、合気道は、ヒマラヤの山奥まで1人で行かなくても、道場で相手というもうひとつの宇宙と対峙することで、対峙しつつ、対立することなく、お互いが同化して、もうひとつの宇宙、世界観を作り上げていく、稽古を通して、そんな世界を体感することができるのです。

こういったことが背景で、合気道は欧米では「動く禅」とも 言われ、東洋の哲学が武道の中に体現された身体芸術とも言われるゆえんでしょう。

では、私が稽古の中で具体的に意識していることを記してみます。

「自分が場の主宰者になること」

「自分が今、此所にいることは前から決まっていたと、全て肯定し、強く断定する。」

「稽古は "透明な心" で取り組むこと」

「相手を嫌っていけない、相手を痛めつけるのではない」

「相手と正中線を合わせる」

「間のとり方、間合い」

「最適動線を探す」

「道場は稽古の場、道場の外が本番。

合気道の稽古で学んだことを活かすのは、人生という本番である」

「ヒンジ運動をしない」

「重心移動、骨盤から体幹、そして腕、指先へ、力を伝えてゆく」

「筋肉を固めて使わない、強い収縮の筋力をもって行うのではない、合気道の稽古をすればするほど、(余分な)筋肉が落ちてきたら本物」

「余分な力を抜くということは、脱力、腑抜けになることではない」

「相手と同化する=合気する、同期する」

「相手と同化して技をかける」

(※ 相手 "を" 同化して技をかける、かな...?と現在、模索中です)

「身体を細かく割る」

「呼吸力で技をかける」

「序・破・急」

「"破→急"で瞑想の境地に入る」

「足踏み 目付 胴造り 足捌き 手捌き」

上記は全て内田師範より御指導頂いたことです。

自分の中に強く残っていることであり、常に自身の課題でもあります。

それにしても、これらの言葉は、身体操作の指導でありながら、結局は人としての生き方を合気道という稽古の現場で学ぶことに繋がっていると感じます。

また内田先生もご自身のブログでこのように記されています。

失敗の効用 (内田樹の研究室)

「習い事のすばらしいところは、稽古で失敗しても、それで職を失ったり、会社に迷惑をかけたり、人生に大きな禍根を与えないことである。つまり伸びやかに 失敗をし学ぶことが出来る安全な場であり、そこでの経験を自分の人生や本業に活かすことが出来る、それが習い事・稽古事のすばらしいところである。」あくまでの私流の意訳要約ですが、そのようなことがもっと簡潔にすっきりと書かれています。是非、お読み下さい。

合気道は楽しいです。

休まず間をあけず続ければ続けるほど楽しくなってきます。

人と組むという身体感覚を通して、しかも「勝敗を競わず」に、相手の身体から送られてくる微細な情報をキャッチして修業する、その精妙なプロセスは、ある種の「学びと救い」、本人が予想だにしなかった「大きな気づき」をもたらすと言って過言ではありません。

合気道をはじめてみませんか?

最初は難しく考えず、汗をたっぷりかきたいから、痩せたいから、袴姿になってみたいから、ケンカに強くなりたいから、護身術を身につけたいから、仲間が欲しい、動機はなんでも構いません。

けれど一度フタを開けたら、あなたが予想しなかった面白い世界が待っています。

そうそう、もうひとつ、師匠の印象深い言葉を記して締めましょう。

「合気道には、入り口はあっても、出口はない。」

ビバ!合気道!合気Do!

いっしょに合気道をはじめてみませんか!?

あなたの入門をお待ちしております!



※合気道開祖の植芝盛平大先生のこと、合気道の成り立ち、そして私が所属する多田塾の文脈を知って頂くためにも、私の師匠の書かれた「合気道とは」を是非お読みください。


※「合気道とは・ブログ編」こちらは私と合気道のなれそめ、合気道・入門当初の気持ちなどブログに日記としてダラダラと綴ったものです。興味のある方は、お時間のある時にどうぞ♪



合気道とは・番外編(おまけ)


【鞍馬山】

トップ頁にも貼りましたこの写真の地は鞍馬山の山中です。京都洛北にある鞍馬寺は、源義経が牛若丸と呼ばれた幼い日々を過ごした寺、そして鞍馬山の地表を這う木の根をぬって武術の鍛錬に励んだという伝えがあります。

合気道の開祖、植芝盛平大先生も若き日には愛弟子を連れて鞍馬山の地表を這う根の場で21日間武道修業をされたそうです。

これは私が鞍馬山に初めて入山したときの写真ですが、開祖らが武道修業されたのは、おそらくこの場所ではないかと想像いたしております。

また最近、守伸二郎先生の中国武術の韓氏意拳の講習を受講した際に、足場が不安定なアンバランスな場である方が、実はバランス力や武術のパフォーマンスが高くなるという実証を見せていただきました。

この樹の根が広範囲に地表に張っている場は、ほんとうに空気も清浄で、おごそかな大地や宇宙エネルギーを強く感じると共に、いろんな意味で開祖にとって、最高の修業場であったのではないかと思いを馳せます。


「いのち~愛と光と力」澤村洋二・作

こちらは貴船神社側でなく、鞍馬寺の方から入山した場合、鞍馬山山中でわりと早く出会えるオブジェです。

ネット上では鞍馬山のことは、よくパワースポットとして、例えば霊氣(レイキ・ヒーリング)の創始者が開眼した場所としてもよく取り上げられていますが、このオブジェに関しては「謎のオブジェ」などとよく表現されています。

けれど私はこのオブジェを見て感動しました。

なぜなら、師匠のそのまた師匠である多田宏先生は講習会で
「自分の周りに見えない円錐を描く。
それが自分の場であり、道場であり、結界である。
その場の主宰者となる」

「 " 螺旋 " で力を伝える。
人間の体も、大きな建物も
螺旋を描くように力が働くと壊れてしまう」

と、よく説明されます。

つまり、円錐と螺旋の働きは、合気道の中で重要な要素であり、気の働き、エネルギーそのものだと私は感じています。

このオブジェの作者は合気道家なのかどうかは存じ上げませんが、きっと鞍馬山にある"何か"をよく感じて作品にされたのだと思います。

わたしにとってはまさに合気道の象徴のようなオブジェだなぁとひとしきり感心したのでした。



愛と光と力の像「いのち」について オブジェの傍に記されています。

この像は、鞍馬山の本尊である尊天(宇宙・生命・宇宙エネルギー・宇宙の真理)を具象化したものです。と説明が書かれています。

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