歴 史 が 刻 ま れ た 身 近 な 場 所 




信 長 の 天 下 布 武 緒 戦 



 箕 作 山 城 の 戦 い     No,2


    信長は勢州にいた木下藤吉郎、滝川左近将を呼び戻したのです。 そして軍備を整えた信長は、永禄11
  年(1568)9月7日岐阜城を出発し、大垣より尾張の軍勢を引き連れ関ヶ原を越え平尾村(現 ・ 岐阜県垂

  井町平尾)に入りました。
  この地で伊勢より駆け付けた滝川、木下軍と合流し、「六角義賢を退治する」との命令のもと、総勢1万人有

  余の軍勢となって中山道を観音寺城に向かいました。 そして8日に高宮に着陣して人馬を休めています。
  その後2日をおいた9月11日に軍を進め、愛知川の東側と言われる右岸付近に野陣を敷いたのです。


 

箕作山城と観音寺城の位置関係と織田軍の野陣想像位置図 (国土電子ポータル参照)



    この頃、愛知川には橋は無く、雨が降ると荒れ狂う濁流となり 「人吞み川」 と呼ばれていました。
 「戦が始まる」ということは事前情報として広まっており、中山道の愛知川宿や観音寺・箕作山周辺では旅人

  や百姓等は辺りから逃げ去り、人っ子一人居なかったはずです。その証拠に旧の愛知川町史・五個荘町史・
  八日市市史、各町のむかし話等には具体的な言い伝え等全く見あたりません。

  六角側の本拠地は繖山の観音寺城で、その南向かい側の箕作山城を中心に和田山城 ・ 佐生日吉城と大
 小さまざまの支城にこもって応戦の構えをとっておりました。
 

 愛知川右岸の中山道東側付近
 

左端山が箕作山系 ・ 左端から2つ目の山が(きぬがさ)山系・ 右端が和田山


    箕作山城に立て籠もる吉田出雲守 ・ 建部源八郎 ・ 狛修理亮ら3,000人の兵は浅井家の情報からもか
  ねてより強兵を誇り、堅固の構えであることが伝わっていました。

   信長軍の内訳は、丹羽五郎左衛門の3,000有余、佐久間右衛門の2,500有余、勢州の滝川一益配
  下諸軍3,000有余、木下勢寄騎衆2,300有余の合計1万有余でした。 ここに浅井軍、徳川軍が合流して

  ふくれあがり、その軍勢は4万人とも6万人とも言われています。 そして、信長軍精鋭の鉄砲隊500有余挺
  を先頭に愛知川を渡り、佐々木六角のたてこもる箕作山城 ・ 観音寺城の両城を落城させる手はずだったと

  されています。
  



織田軍の野陣想像位置 ・ 箕作山より愛知川方面の眺望
  

   そして信長は、自ら馬を掛け回して観音寺城の支城を検分して回り、小城は見向きもせず、観音寺城か
  ら見える箕作山城を攻撃する決断をしたと言われています。

  この時、信長の所領となって間も無い美濃の将士達は、
      この戦いではさだめし先手として追い立てられてこき使われることになるだろう

  と覚悟をしていたようです。


 

箕作山西側中腹からの繖山全景

 

繖山に展開していた観音寺城 (安土城考古博物館)

    しかし信長は、永禄11年9月12日(新暦10月26日) 軍議の末席に控える木下藤吉郎に目をかけ、歴々
  衆を差し置いて

     1、観音寺山へ、佐久間右衛門尉
     1、箕作山へ、北の口より木下藤吉郎、東口より丹羽五郎左衛門

  と、過分なる命令を下したのです。




箕作山・繖山の夕景 (左二山が箕作山・右端が繖山・箕作山城は中央の山頂)

 

   そして、いざ戦が始まってみると、信長は美濃衆などに構わずに馬廻り(直臣の親衛隊)だけで攻撃を開始
  したのです。

  この思いもよらない戦の仕方を目にして、信長の配下に下ったばかりの美濃三人衆といわれる安藤守就、氏家直元、
  稲葉良通などはただ驚くばかりであったと言われています。

 

             
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