P L 学 園 高 校  剣 道 部  時 代

                                                                  N o . T


 剣 徳 寮 生 活  ・  P. L . Y  で の  猛 稽 古 


   青海中学校3年生の時には、同校のページで紹介している通り、北九州ブロック剣道大会と熊本県中体連以下の
  大会では全て優勝でした。その結果、PL学園から師匠の上辻先生が来られてPLへの進学を勧誘されたのです。

  この勧誘は、隣中学校から二期続けてPL学園剣道部に進学していた先輩が居られた縁からだと後で判りました。
  私にはその気は無かったのですが、親が関係者との間で決めてしまい、結局、昭和41年4月にPL学園に入学させ

  られたのです。
  この時は、同中学から剣道部主将と副将の私、それに野球部主将と3人がPLに来ました。

 
どちらかと言えば運動神経は良い方では無かった私にとっては、これが過酷で苦難の3年間の始まりでした。


 
旧・剣徳寮からの通学出発状況・後方はP・L・Y

 
稽古場だった懐かしいP・L・Y


   「年中無休」の寮是。
   通常は朝5時半からの朝稽古と授業後の稽古の2回でしたが、日曜日と連休や、春・夏・冬休みは午前中の稽古

 が加わり、1日3回の稽古をこなしていました。
 寒稽古は、朝4時半から10キロランニングを終えてからの朝稽古でした。特に1年生の時には寮での朝・夕食の準

  備と片付けがありました。そして夜は、夜間のトレーニングを行っていました。私の場合は、個人的に上辻先生から
  言い付けを受けた千回素振りを毎夜欠かさずに長時間にわたり続けていました。それで、始めの頃は両手の平が

  マメだらけになり、売店の女店員さんが驚きの声で訳を尋ねてきたという事がありました。下の写真は教団内に今も
  あるはずの、かってのPLゴルフ場の情景ですが、夜間はここに入り芝生の中で走り込みのトレーニングをしていた

  んです。

 

 
かってのPLゴルフ場と後方の教団施設、背景は葛城山・二上山

 
剣徳寮付近にて・管理者は左端

   休みは月1回のみで、その日は防具や竹刀の手入れをしたり、大阪市内に映画等への外出をしたりしていました。
  そして、正月とお盆には10日間程帰省出来ていた様に思います。稽古場所は、P・L・Yという大きな体育館の 東側

  一面が道場で、そこは剣道の試合コート4面が十分に取れる広さがありました。我々の稽古は月1日は休みがあり
  ましたが道場が休みという訳ではなく、先生が訪ねて来られた方と道場に出て稽古をしておられるのをよく見かけま

  した。在学当時は、時期によって地元警察署や他県機動隊、大学、高校がよく合宿に来られ、P・L・Y の舞台裏の
  部屋で食事や寝具等のお世話をしたのが記憶に残っています。 韓国から遠征して来た高校とも対戦しましたが剣

  風が違い、やりにくかったという思い出があります。
  また、合宿の受け入ればかりではなく、遠征もあり四国、九州遠征を覚えています。

 




    当時の監督である師匠の上辻熊夫先生や顧問的立場の川上徳蔵先生は、かっての武専出身者(大日本武徳会
  武道専門学校)でした。

  武専には全国武者修行の旅があったということで、それを習っての遠征行事と聞いておりました。

  管理者は、在学中に四国遠征と九州遠征があったことを記憶しております。


四国遠征・高松にて
 
同期のご両親と・右3人目は上田幸吉先生

熊本教会前庭での素振り
 
左3人目の学生服で指導する現・警視庁濱崎主任師範


   有名な先生方も沢山来て頂いて稽古を付けて貰いましたが、昭和42年ころ大阪中央体育館での剣道の世界大
  会に際しPL教団が宿泊所兼練習場だった折りに佐賀県に当時只一人居られた大麻勇次十段範士に計2回の朝稽

  古で2回とも必死になって掛かって行きました。
  しかし、軽く竹刀でいなされて、何か空気に立ち向かって行っている様で、防具にさえ全く触れることも出来ずに、そ

  れぞれ最後に籠手を1本だけ打たせてもらい、切り返しを受けて頂き終わったことが頭の中に蘇ります。
  周りから見ていると、まるで一人がドタバタ踊りでもしている様に見えたのではなかったかと思います。
 


 
小 倉 城

 
佐 賀 県 下
 
  
写真については、年齢と共に当時の風貌が変化していますから、顔面写真は加工せずに使用しました。

  氏名はゼッケンの名前をぼかしでマスキング加工しま した。



 
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