蛭   子   神   社
 宿 の 蛭 子 神 社 に ま つ わ る 伝 説


   昔から、市にはどこでも市神が祀られるのが普通でした。市神は市場を守護し、そこに集う人々に幸運をも
  たらすと考えられていたのです。     
                                        

   
宿(しゅく)の蛭子神社の縁起については、資料等が無いので定かではありませんが、その後の経過については面
  白い言い伝えがあります。                                                 

   はたして、これらの言い伝えを、宿の蛭子さんにこじつけて公開しても良いことなのかは分かりませんが、兎
  に角、こうした面白い話もあるのです。
   
           @ 市神の安土移し

    八日市場の市神である市神神社には、江戸幕府10
  年後の慶長15年(1610)5月7日従六位上 北野々宮

  神主大江基房の記したという「八日市場市神之本紀」が
  蔵されている。これは神社の起源を古く現わすという故

  意的な記載が認められるものの、次の織田信長の安土
  築城に関する記事があるのは面白く興味深い。

   信長が安土城築城に際して城下町に楽市楽座の制
  度で市町の振興を勧める上で、市神を八日市から安土

  に移すように命じた。しかし、八日市の市人たちは山王
  の神像を代わりに移し、市神をとどめておいた。そのた

  め、安土はやがて消滅し、ふたたび八日市で市場として
  よみがえったと言う。

   このように八日市の市場が千有余年にわたり絶える
  ことなく続いてきたのは、この神像の擁護を続けた事の

  たまものなり、と書かれているそうです。
   私は、この中で織田信長が市神である蛭子神の安土

  移しをさせたのは、事実であったように思います。



           A 活津彦根神社由緒

   安土町の活津(いくつ)彦根神社の社域に祭られる蛭子神社は、鎌
  倉時代に平井氏が鎌倉より勧請したものだそうですが、安土 

  城下町建設にあたって、織田信長がこの神の霊夢をこうむり、
  八日市の市町の諸商人を安土に呼んで楽市楽座の市で繁盛

  したと言われます。しかし、天正10年(1582)6月本能寺の
  変に続いて安土城の焼亡に至る訳です。 その後、安土の市

  町の商人は秀吉の命により、それぞれの里へ帰ることになっ 
  たそうです。

   その時、八日市の商人はこの蛭子神の神像を持ち帰ろうと
  したのですが、安土の氏子がこれに追いつき、双方が引っ張

  り合って神像の首と胴がちぎれたと書かれているそうです。 
  この場所は、今の近江八幡市西生来町の亀川という所で、こ

  こは中山道の交差点に亀川の表示がされています。
  その時から此処を 「チギリ」 と呼ぶことになったと書かれて

  いるそうです。                             
  安土の蛭子神社の祭事には八日市の市神より鏡餅を二重

  ね奉納したことがあると伝えられているそうです。       
       (活津彦根神社由緒調べ・八日市の歴史掲載引用)


 
 
              B つんぼ蛭子

    昔々、八日市と安土の商人の間で恵比寿さんの御神
  体の祭 祀争いがあり、終には力と力の争いに発展した

  そうな。その結 果、御神体は無残にも首と胴体に千切
  れてしまった。それを各々持ち帰って祀り、八日市の市

  神神社には、その片方が祭られているそうです。    
   この時、恵比寿さんの耳も落ちてしまい、この耳を祀

  ったのが小脇町にある宿の蛭子神社であるそうで、そ
  の後、ツンボ蛭子といわれるようになったそうです。そし

  て、恵比寿さんの耳が聞こえないので、春の祭りには3
  日前 から 鉦や太鼓を打ち鳴らすようになったと言い伝
 
  えられています。 この御神体を奪い合ったのは、近江
  八幡市の武佐と同市安土町老蘇の中間にある中山道

  の亀 川という所らしく、ここを地元では 「チギリ」 という地
  名で 呼ぶそうです。  (八日市の昔ばなし掲載) 


   

リンクトップ へ
 

蛭子神社トップ へ
  
  終 わ り  

 

仁吉郎桜へ続く