縁 起 に つ い て 蛭子神社の縁起について、現在私の限りにおいて確認 資料等はありませんでした。 言い伝えでは ・ 聖徳太子が西暦601年に市店を開き交易の道を 教えたが、その頃から祭られている ・ 西暦669年に移住した渡来人(狛の長者)が市を 開いて交易をしたが、その頃から市神として祭ら れていた ・ 狛の長者の持仏堂「金柱宮」の参詣で賑わう客を 相手に市が開かれ市神として祭られていた 等がありますが、定かではありません。 しかし、商売の神様である ていた現実としては、その商売の場となる 「市場」 がこの 神社の付近にあったことは間違いないでしょう。 それを知る手立てとして源平盛衰記に記載されている 『小脇の八日市』という下りから推測されます。この源平 盛衰記というのは作者不明ですが、鎌倉時代の中頃に 完成したと考えられている物語です。 この中に、今から830年余前となる治承4年(1180 年)伊豆で平家討伐の兵を挙げた源頼朝の元に源家重 代の家人であった佐々木四郎高綱が駆け付ける際の出 来事が書かれています。 |
社守と正月の御供え |
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同 上 |
社守による新年の蛭子神社宮跡への参詣 |
それは、京都を出発した高綱が、その夜は守山に泊ま り、翌早朝に 野洲川の河原で、馬を引いた「蒲生郡小脇 の八日市」へ商品を仕入れに行くという栗太郡の在郷商 人 騙し取って乗り逃げし、鎌倉へ駆けたという下りがあり、 八日市を知る歴史上最初の記載なのです。 ここで出て来る 小脇の八日市 という下りが注目されます。 この事は、この市が小脇地区に存在していたことを裏付 けるもので、八日市は 「8の日」 の10日に一度市が開か れたと考えられています。 その場所が、この蛭子神社の付近だったと推測され、 その頃から市神として、又 思われます。 |
八日市市史掲載 |
余談として、この当時の市場というのは建物店舗とい ったものはなく市の日だけ雨露を凌ぐ程度の粗末なもの でした。 だから移動性があり、その後、佐々木六角の観音寺城 下での楽市や織田信長の安土城下での楽市楽座の方 に移動したのです。 最後に御代参街道(伊勢街道)と八風街道、中山道の小 脇回りの迂回路が交わる、現・東近江市八日市に落ち着 いたとされます。 |
※ 左は源平盛衰記の一面ですが、左のページの右か ら3行目に、上から『 こわきの八日いちへゆく ・ ・ ・ 』 と書かれてあります。 |