地蔵院(大沢)の修復工事竣工にあたって
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                            平成14年11月17日
                           湖東町歴史民俗資料館学芸員
                            森 容子 

 地蔵院の創立年代は明らかではない。寺伝では、推古天皇14年(606年)
に聖徳太子が瓦屋寺(現八日市市)より百済寺に向かう途中にこの地を通られ
たとき、地中より錦の光明が放たれているのを見て、そこを掘らせたところ、
石の地蔵尊が出現したという。そこで、その地に一寺を建立し、その地蔵尊を
祀ったのが寺の由来である。
 今回の修復工事に関連して、興味深かったのは、寺の由来となった石造地蔵
菩薩像の全様を見る事ができる事であり、現存する本堂の建立にかかわる何か
が判るかも知れないという期待であった。しかし、残念なことに姿を現した地
蔵菩薩像は像も土台も漆喰で固められており、年代を判別することはできなか
った。
 石造地蔵菩薩像は石積みの土台の上に安置され、漆喰で固めてあるため台座
がどこまで続いているのかわからず断言は難しいが、調査の結果をまとめると
次のようになる。

 @石造地蔵菩薩像は地中深くに続くものではなく、石積みの土台に乗せられ
  ている。現在の土台である石積みは円柱形であるが、当初のものであった
  かどうかわからない。石造物の大きさから推測すると円墳状であった可能
  性も考えられる。
 A土台および周囲の状態、本堂の構造から、石造物を移動した痕跡は見られ
  ず、像の覆屋として本堂が建立されたと思われる。
 B像容から、室町頃の石造物と思われる。(ただし、漆喰のため推測)

 本尊の地蔵菩薩像の他、地蔵院に伝えられている仏像として、木造三宝荒神
立像がある。この像は神仏習合思想から生まれた尊像で、仏典に典拠するもの
ではなく、作例はほとんどが室町時代以降のものであるが、地蔵院の三宝荒神
立像は非常にすぐれた出来映えであること、また、亡失しているが、梵鐘の報
告書に室町時代の梵鐘があったと記録されている事から、現本堂建立に先立ち
室町期には立派に前身となる堂宇が建立されていたと考えられる。

 今回修復した本堂は、桁行三間、梁間三間、向拝一間、桟瓦葺の建物で、平
面は基本的には内・外陣の前後二室に分けるが、内外陣の境には建具を置かず、
実質的は一室の構造となっている。外陣は三間で奥行一間の畳敷きである。正
面は現在は出入り口になっているが、本来は半蔀戸を吊っていた。柱の主な材
料は杉材であった。向拝は棒材を用いて唐戸面取り柱に虹梁を架けるが、虹梁
絵様は表と裏で変えている。このデザインは湖東町では、平松の妙光寺(天保
四年・1833年)によく似ている。獅子頭は大きすぎてバランスを欠いてい
る。屋根は桟瓦葺で大棟は鬼瓦を飾っている。今は欠損しているが、シビを置
いていた。獅子口が多い地域で鬼瓦を用いた瓦は非常に珍しい例となっている
が、江戸時代の仏堂であるが、地方の小規模密革寺院の遺構としても貴重な存
在である。

 また、修復が進むにつれて天保年間の棟板や瓦が次々見つかり、およそ20
年にわたって建築なされていた事が伺え、江戸時代の寺院建築の様子を伝える
貴重な資料となった。

 このような建造物の価値と建築年代を反映した外観がよく保存されていたと
ころから、地域の造詣の規範となるものとして国の登録文化財となった。した
がって、この修復においては、登録文化財としての価値を損なうことなく行わ
れ、永く未来に伝える事を目的として行われた。
 新築してしまう決断もあるが、面倒な部分修理の積み重ねである、文化財修
復工事の手順において、今回の工事がなされたことは、その方針を決断された
大字大沢の文化性の高さを示すものと言っても過言ではなく、他の見本となる
と思われる。
 かの法隆寺が建築から、1200年を経て、世界最古の木造建造物といわれ
ているが、日本の建築は今回地蔵院において行われた修復工事と同じく肌理細
やかな修理を重ねてゆけるところにその特徴があるのを私達は忘れてはいけな
い。
 この平成の大修理の精神を後世に伝える事こそ、次の世代の使命である。


森容子氏の調査結果をホームページ版に編集しました。
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