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神の島竹生島へ |
SP62
早崎港□□
左 竹生島本道 弐拾五丁
各月出□□
明治十四年五月 発願本村
営業社中 |
■高時川を渡る
この道標は高時川の北、湖北町馬渡(もうたり)側に立っています。この堤を琵琶湖の方に進むと竹生島に渡る早崎港に行けるのです。
ところで、この地、『馬渡』とは?・・左の案内板にそのいわれが紹介されています。
ことは「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」(南北朝時代、将軍尊氏と実弟直義両勢の対立による室町幕府の内乱)に由来するとのことです。当時は北国街道で人の行き来が多いにもかかわらず、高時川には橋がありませんでした。そのため、増水時には渡し船で向う岸にわたらなければなりません。 |
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高時川は色々大変な川でした。
観応二年(1351)、八相山の戦いに勝った尊氏が北陸に向かうとき、この高時川が増水で渡れません。この機に観音寺村の庄屋、赤堀藤八郎は村人総出で尊氏勢の渡りを助けたそうです。感謝した尊氏はこの村の名を馬渡(うまわたり)村と改名を許すとともに、与えた大盃を川に流し、流れ着いたところまでを村の境とするように伝えたといいます。赤堀が八相山は虎御前山(とらごぜんやま)と呼ぶことを伝えたところ、尊氏は「人馬を渡せるの功、虎のごとく山の如し」として、赤堀姓を「虎山」と呼ぶように言いました。今も、その末裔がお住まいとか・・
*観応二年九月、先に京を発した直義軍を尊氏軍が追い、虎姫の八相山(虎御前山)で戦いがありました。この山は、姉川の合戦でも織田信長が陣を敷いたところです。 |
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竹生島へ
この方向が琵琶湖に通じます。今日は小雨で肌寒く、そのうえ強風が吹き荒れていて、少々侘しい雰囲気でした。戦いに明け暮れた当時の川を渡る大変さと大切さが今の我々には想像しがたいです。 |
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