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琵琶湖往来堅田港 |
SP45
右 さか本
大津
左 かたヽ舟わたし
すく北国海道
文化十一甲戌年 渡舟仲間 |
■湖上交通・湖西への入口
対岸の三上山(近江富士)を望み、この旧堅田港桟橋に降り立った人達は比叡山延暦寺への御参りでしょうか、北国海道を通って行商をしたのでしょうか? |
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堅田商人も大いに栄えた
この地の堅田衆は物流の要として多数の舟を有し活躍していたのです。この地は豊な物資の往来で町もおおいに栄えました。 |
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琵琶湖哀歌
琵琶湖哀歌の碑です。琵琶湖で失った尊い命は少なくないのです。
昭和16年(1941)6月にテイチクから出た流行歌です。同年4月に琵琶湖でボート練習中に突風で転覆、悔しくも水死した第四高等学校(現金沢大学)漕艇部の部員11人を悼んで作られた。歌の半分は琵琶湖周航の歌の借用で、急きょ作られたと言う。
■遠くかすむは 彦根城
波に暮れゆく 竹生島
三井の晩鐘 音絶えて
なにすすり泣く 浜千鳥
■瀬田の唐橋 漕ぎぬけて
夕陽の湖(うみ)に 出で行きし
雄々(おお)しき姿よ 今いずこ
ああ青春の 唄のこえ
■比良の白雪 溶けるとも
風まだ寒き 志賀の沖
オールそろえて さらばぞと
しぶきに消えし 若人よ
■君は湖の子 かねてより
覚悟は胸の 波まくら
小松ヶ原の 紅椿
御霊(みたま)を守れ 湖の上
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ダ
文化十一年(1814年)に渡舟の仲間が建立しています。きっと、旅人は船頭さんや荷夫さんに行き先を聴いたのでしょう!道しるべって何処から見るのでしょう!特にこの道しるべは降りて来た方向からだと右左の案内は逆?「すく北国海道」の面が琵琶湖に向いていれば理屈は合うのですが・・・いや、そうでもないか?・・ここに建てられていたのではないのでしょう!堅田舟渡しへの案内と北国海道の案内から真っ直ぐ行くと北国海道、左は渡し、右は大津を示す位置に建っていたのです。(当たり前でした) |
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