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跋難陀龍王宮

SP06
跋難陀龍王宮  是より
俵籐太秀郷社 川ぞい半丁
     寄進(25名の連記)
文化十四 丁丑年五月再建 

大津市瀬田唐橋東詰
■瀬田川の龍神 
文化十四年(1817年)に建立された道標。
跋難陀(ウバナンダ、ばつなんだ)は八大龍王の一人で難陀龍王と共にマガダ国を守ったという。釈迦如来降生の折、雨を降らして灌いだことから水の神様として祀られている。瀬田川の龍神なのです。
ムカデ退治の話
俵(田原)藤太秀郷とは平安中期の武将で藤原藤太秀郷のこと、蒲生氏の祖という。
ここ瀬田の唐橋といえば、俵藤太の「百足退治の伝説」が有名である。
俵藤太の出自は近江国栗太郡田原村とも(一般的には)下野国(今の栃木県)の土豪・鳥取氏であるという。
瀬田の唐橋を守れ!
瀬田の唐橋は幾度となく壊され、再建され、位置も変わるなど数奇な歴史を持っています。
●近江八景の一つ「瀬田の夕照(せきしょう)」
●日本書紀にも登場する橋
●671年の「壬申の乱」で最大の決戦ち地に!
●1221年の「承久の乱」では京を守る攻防の地に!
●1336年の「建武の戦い」でも瀬田川を挟んでの攻防の地に!
他にもこの瀬田川を行き来できる唯一の橋は常に戦いの重要な地になりました。
【近江の百足退治伝説】
■ある日、瀬田の唐橋におよそ60m(20丈)にも及ぶ大蛇が横たわっていて、人々は恐れて橋を渡れない、しかし通りかかった藤太は大蛇を踏み超えて渡ってしまった。
その夜、美しい娘が藤太を訪れ、「私は琵琶湖に住む龍神の一族の娘」で唐橋に大蛇の姿をして横たわっていたと話す。今、龍神一族は三上山の百足に苦しめられているので退治してほしいと頼まれ、快諾する。藤太が顕と弓矢を携えて三上山に向かうと山を七巻き半する大百足に出会う。早速矢を射ったが歯が立たない。最後の矢に唾をつけ、八幡神に祈願し射るとようやく退治できた。藤太は龍神の娘からお礼として米の尽きることのない俵(ここから俵藤太とも呼ばれます。)や鐘な宝物を一杯もらったという。この龍神から平将門の弱点を教えてもらい打ち負かしたそうです。
■娘ではなく、その様子を見ていた男あるいは爺さんともいう。
■百足退治は三上山に向かったのではなく、夜半松明を持った大百足が向かってきたともいう。

■下野国には「日光山と赤城山との神戦で大百足に姿を変えた男体山(または赤城山)の神を猿丸大夫がうつという伝説」や「俵藤太が百目鬼をうつ“百目鬼伝説”」などが残っており、瀬田の伝説もこのような話と関連が深いと思われる。
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