信長が愛した”お鍋の方”の暮した高野城址
信長が愛した”お鍋の方”屋敷跡です。信長の尾張へ帰る道案内をした小倉一族の
小倉右近太夫が、これが縁で手を組み、それが佐々木義賢に知れ右近太夫は追われ
近くの八尾山で切腹した。その右近太夫の妻が、お鍋の方である。
これを知った岐阜にいた信長が、哀れみに思い御殿をたてて住ませた。
本能寺の変で信長死後、秀吉が永源寺高野町に高野城を構え化粧地を与えた。
1612年に亡くなり、京都大徳寺に葬られました。
高野城址 野面積み
因みにお鍋は現在の近江八幡から右近太夫の元に嫁いで来ており、信長亡き後、
高野城に住んでいたころ近くに堂を建て右近太夫を偲びました。
これが『虚空蔵』と呼ばれ中に虚空蔵(こくぞう)菩薩像と右近太夫の位牌があります。
虚空蔵(永源寺高野町)
※ よく歴史書やドラマで、お鍋の方の夫は小倉実澄とされていますが、実澄は日野の
佐久良城主として文武両道優れた武将で、高名な名僧とも面識が深く、応仁文明の乱
時、京都の多くの学僧を永源寺に招き入れ『文教の地、近江に移る』とも言われるよう
になりました。実澄は信長が生まれる以前に亡くなっており、お鍋の夫ではありません。
小倉実澄の塔…永正二年(1505)ここに眠る これが、信長が宴会に出した料理
(永源寺裏門より徒歩20分) 史実に基づき、再現したもの
信長が馬をつないだ『駒つなぎの松』
永源寺地区甲津畑町
赤穂四十七番目の義士、寺坂吉ェ門の墓です。
足軽のため、切腹を免れ、討ち入り後、赤穂に報告に行き
江戸に帰らず、永源寺で僧侶になり、ここで没しました。
毎年、討ち入りの日は、義士祭が行われてます。
(永源寺対岸、相谷町の国道421号線脇にあります)
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