平成25年11月26日 |
|
寺尾求馬助信行 元和7(1621)年〜貞享5年6月12日 13歳(寛永10【1633】年〜16歳・藩主細川忠利公の御側用人。 父左助勝正(1050石)とは別に、200石を受ける。 寛永15(1638)年に島原の乱に出陣し戦功を上げる。 寛永21(1644)年11月宮本武蔵が五輪書を執筆中に病いに倒 れ、藩主細川光尚公の命により看護に付し、武蔵死去の天保2 (1645)年5月19日まで看病する。 その直前の5月12日「兵法三十五箇条」を相伝した。 三代目細川綱利の代に百石増加・鉄砲30丁頭となる。 貞享5(1688)年、68歳で没す。 |
昭和40年10月 熊日新聞掲載 |
|
私の管理運営する、このホームページには故郷熊本の事を掲載していますが、その中でも青海 中学校剣道部のページには当時の新聞記事の切り抜きをアップしています。 その記事の三段目には細川藩の客人として余生を送っていた剣聖宮本武蔵の高弟だった寺尾新 太郎がこの地方に住んでいたということで昔から剣道が盛んで、父兄でも初段・二段は普通に有し、 四段以上なら20数名は居ると書かれています。 この寺尾新太郎というのが、上記寺尾求馬助信行のことなのです。 この度、母の様子を見に帰省したついでに寺尾信行の墓参に行ってきました。 |
寺尾信行墓所が所在する石打ダム |
石打ダム案内板 (赤字矢印が墓所) |
石打ダム (左手谷間の奥が大岳山) |
石打ダムの下流 |
墓所の案内板 |
左 同 |
寺尾求馬助信行の墓所は、本宅が所在した熊本市内の熊本大学近くにもあるようですが、知 行地に屋敷を構えて住んでいた現・宇城市三角町郡浦の中村地内にもあります。 只、この場所には、洪水・渇水対策のために石打ダムが建設計画され、水没することになり墓所 は、平成元年にダム右岸の道路から少し登ったみかん畑横の山林内に移設され、ダムは平成4 年に完成したのです。 |
寺尾家碑霊碑(ダム建設と墓所移設・追悼文が書いてある) |
|
寺尾求馬助信行の墓 |
左 同 |
寺尾信行の追悼歌碑 |
|
寺尾家墓所の入り口には寺尾信行の追悼歌碑があります。 そこには、 兵法家寺尾信行は剣聖宮本武蔵に剣法を学び 「門弟多中に此道を伝えること信行一 人に限る」 と言わせ程の腕前となって武蔵第一の弟子として二天流兵法を受け継ぎ後世 に伝えた。 旧中村の八久保を開いて住むようになったのは深山幽谷で静かに暮らしたかっ たからであろう と書かれていました。 その付近の山頂からは、平尾信行が若かりし17〜18歳の頃島原の乱で出陣して原城攻めで 戦功をたてた、かっての島原と同じ風景が望める所なのです。 |
島原半島(中央の高い山が雲仙普賢岳・原城趾は左端2㎝辺りの海岸擁壁上) |
|
私は若い頃、現・甲賀市水口町に住みそこで勤務していましたが、同町の歴史書の中に 寛永15(1638)年の島原の乱に、水口の伴谷村に住む甲賀衆である忍者の達人山 中某が駆り出されて原城攻めに出陣し、瀕死の重傷で帰郷した ということが書かれていたのを思い出します。 |