歴史が刻まれた身近な場所 
 
源 頼 朝 公 ・ 小 脇 館 に 宿 泊   No'U



 

伝源頼朝像 (神護寺蔵)



                         頼朝公は何故(なぜ)小脇に泊まったのか 

    京都を未明に出発すると、普通であれば一泊目は草津・守山宿辺りとなりますが、頼朝は、より遠い小脇宿に敢えて

  て宿泊しています。

  この当時、小脇郷には佐々木六角一族の居館である「小脇館」がありました。これは佐々木一族の先祖で、佐々木雅

  信が臣下(公家より身分を下る)し、近江国佐々木荘に下向してから、その四代後の佐々木経方の時代(1010頃?)か

  ら小脇の館に住む様になったとされています。そして経方の孫となる佐々木源三秀義と、その5人の息子、定綱・経高・

  盛綱・高綱・義清は、源平合戦の平治の乱で源氏が負けたことで関東へ追われました。





小脇館」と「蒲生野宿」の仮定略図  (電子国土ポータル参照)


   しかし、20数年後頼朝が流されていた伊豆での平家征討の挙兵に至り、いにしえより源家の家人であった佐々木秀義

 親子はこれに駆けつけて、親子共々次々と功績を上げ、特に4男 ・ 佐々木四郎高綱の活躍と功績は後世にまで名を残し

 ています。又秀義の数々の功績も際立ちましたが、元暦元年 (1184)7月滋賀県甲賀郡甲賀町上野での平氏との戦い

 で戦死しており、頼朝公入京の頃には息子・定綱の代になっていました。父秀義はその功により死後に近江権守を贈ら

  れ、一族は元の領地に復活出来たのです。

   この様なことから、頼朝は特に信頼を寄せていた佐々木定綱の居館があった小脇に敢えて宿泊したのです。

 
 

 

小脇館跡内の脇集落南端付近に設置されている案内板



   この時は、厳寒の建久元年(1190)12月14日(新暦1月25日頃)のことで、もちろん、頼朝は厳重警備の中で小脇

  館に宿泊し、追従の兵千余騎や従者は急ぎ造った宿舎や民家等の蒲生野宿(小脇宿)に泊まったとされています。

  この頼朝は、1192年(建久3年)3月、後白河法皇が崩御すると、同年7月12日に「征夷大将軍」に任ぜられています。

    しかし、建久9年(1198)12月27日、相模川で催された橋供養からの帰路で、 かっての落馬が原因により体調を崩

  して死亡に至ったとされています。
  
   一方、佐々木六角一族は、その後、400年近くにわたり領地の繁栄と安泰を築いていましたが、永禄11年(1568)に

  織田信長の上洛緒戦において箕作山城の落城とともに実質的に滅亡となったのです。
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