鎌倉幕府を打ち立てた初代征夷大将 軍である源頼朝公は、久安3年(1147)4 月8日、源義朝の三男として尾張国熱田 (現・名古屋市熱田区)に生まれています。 |
伝源頼朝像 (神護寺蔵) |
2012年のNHK大河ドラマは平清 盛を放映中ですが、つづいて歴史は平 氏が源氏に滅ぼされて全国の人里離 れた山あいに平家落人の伝説をつくり 源氏の時代へと流れて行くのです。 |
たしか中学校の社会科の教科書に だったか、頼朝公の肖像画が載って いて、何とも凛々しい構図は衝撃的 に脳裏に焼き付きました。 |
こうした事とは別に、我が地元小脇 郷の人達は「小脇には頼朝が泊まっ た のや」と言って、何か自慢というか誇り に思っておられる方が多い様です。 |
この、源頼朝公の肖像画データについては、神護寺御住職様より使用許可を頂き、幸いにも掲載出来ました。 |
既に数年前から、源氏の棟梁として鎌倉幕府を打ち立てて武士による政権を手中にしていた源頼朝公は、遂に朝廷 に将軍宣下を迫るべく、 建久元年(1190)10月3日鎌倉を出発し、11月4日武佐・馬淵・鏡を通り、11月7日千余騎の 軍勢を率いて入京し、かつては平氏の本拠地であった六波羅(現・東山区内)に新造させた邸宅に入りました。 京都で は、東国の兵を見るために多くの人々が集まり、後白河院も車を出して密かに見物したと言われています。 『愚管抄』(天台宗僧侶の慈円著の鎌倉時代初期の史論書)には、 「三旗々々ナラベテ、武士ウタセテ我ヨリ先ニタシカニ七百余騎アリケリ。後に三百余騎ハウチコミテアリケリ。コム アオニ(紺青丹)ノウチ水干(すいかん)ニ、夏毛ノムカバキ(行縢(むかばき))、マコトニトヲ白クテ、黒キ馬ニゾノリ タルケル。」 と記されてあって、下の図の如く威風堂々と入京した状況が目に浮かびます。 |
建久元年源頼朝卿上京行粧之図 (文久2年(1862)五雲亭貞秀『歌川貞秀』作) 早稲田大学図書館蔵 |
この入京の図のデータは、早稲田大学図書館にあり、同図書館 『特別資料室』 より転載許可を頂きましたので、本ペ ージに掲載出来ました。千余騎の軍勢が「三条大橋?」を渡って京都の中心を北方に行進する鳥瞰図です。 |
頼朝公は上洛して後白河法皇に初めて対面し、ほぼ1日中2人きりでの長時間の懇親対面、その他にも数回にわたる 膨大な献上金品と対面のやり取りを行っています。 そうした中で「征夷大将軍」の地位を熱望した様ですが受け入れられ なかったようです。 その代わりに階級を飛ばして、「権大納言・右近衛大将」に任ぜられ、拝謁の儀式等を執り行ってはい ます。 しかし、 既に数年前から実質的な征夷大将軍として実権を振るっていた頼朝にはそうした低い身分は不要の肩書きで した。それで帰途に際して頼朝は両方とも辞しています。ただ、この間の膨大な献上金品と関東武士千余騎を引き連れて の40日間の上洛滞在の効果は、その後の権勢を確たるものにしました。 |
太郎坊宮本殿より小脇郷を望む (白の四角囲い付近が小脇の館跡) |
そして12月14日(新暦1月25日)、鎌倉へ向け京都を立ちます。その途中の第1泊目を小脇宿において宿泊しました。 上の入京の図のごとく千余騎の軍勢が、帰り道にこの片田舎の小脇郷に宿泊した訳です。 『吾妻鏡』には、「入夜風尤烈令着小脇宿給」と記されています。風の最も激しい寒い日夜になってから小脇の宿に到着し たのです。現在、小脇町宿集落がありますが、ここが当時の蒲生野宿でした。そのころ小脇には既に領地の復旧安堵を受 けた佐々木六角定綱の館がありました。頼朝自身はそこに宿泊したのです。追従する大勢の関東武士も寒気厳しい夜、 定綱の館や宿駅(駅家『うまや』)等、急造された建物に宿泊したのです。その宿泊所に伴う食糧等の諸授準備も大変なも ので、定綱に所属する者はもちろん、小脇郷を中心とした佐々木荘の住民は、当然のことながら食糧調達、物資の徴収・ 労役に総動員され、接待応援者等でごったがえしていたことが窺われます。そして12月29日に鎌倉へ戻りました。 この後、佐々木六角貞綱一族は400年近い長い歴史の中で 『金田館』 『観音寺城』へと居城を移し、 安泰な時代が続く ことになりす。 |
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