八楽溜と「総つかみ・オオギ漁」

 再来年の平成28年は、大沢が開村した元和2年(1616年)から400年を迎えます。
 元は織田信長の家来で、のちに井伊家にも仕えて、南菩提寺に住んでいた太田庄左衛門藤原(ふじわら)時重(ときしげ)という人が、彦根藩から命じられて新田を開発することになり、同じ織田信長の家来であった杉村縫之助(ぬいのすけ)や、元は武士であった垣谷、sc、夏原、野村などの人たちが集まって、林や原野を切り拓き、田圃(たんぼ)や大沢新町という村をつくりました。江戸時代に入ってからできた彦根藩が、最初に検地を行ったのは、大沢新町であると記録されています。なお、当時の村というのは、集落の単位です。
ところが、せっかく田圃をつくったものの、周辺の村から田圃に必要な水をあまり分けてもらえなかったので、大沢の人たちは彦根藩に願い出て、八楽溜を造ってもらいました。

古く奈良時代には、近江の国は全国一の米の生産地で、戦国時代の終わり頃でも、陸奥の国に次いで、近江は全国2位でした。陸奥の国は、今の青森、岩手、宮城、福島と秋田県の一部の範囲でしたから、近江一国で2位というのは、ここが全国有数の穀倉地帯であったことを示しています。
その近江の国の中でも、東近江地域は稲作の中心地でしたが、水利の面では必ずしも恵まれた土地ではなく、川から遠い大沢のあたりでは、おもに溜池によって農業用水を確保していました。

大沢では、その後も仁(に)右衛門(よもん)溜(だめ)や鍛冶屋(かじや)溜(だめ)などがつくられましたが、八楽溜は村の上流にあって、防火用水の役目も果たしていましたので、惣溜(そうだめ)として村全体で管理してきました。この惣とは、村という以前に大沢などの集落の単位をいった言葉です。
溜の水を農業用水として使うときには、その水を利用する田圃の家によって「溜(ため)懸(が)かり」というものが決められていました。鍛冶屋溜の場合は、南菩提寺が3分の1の水を使う権利をもっていましたが、その土地の権利や、魚をつかむ権利は大沢のものであったことが、江戸時代や明治になってからも明確になっていました。
 八楽溜は、惣溜であったので、溜を補修したりするのは大沢全体で行い、そこで魚をつかむ権利も、大沢のすべての家にありました。なお、江戸時代には八楽溜の補修工事に必要な人件費や材料費は、全て彦根藩が負担したと記録されています。

このような惣溜の八楽溜では、江戸時代から大沢のすべての人たちが参加して、4年に一度「惣つかみ(今では総つかみといっている)」を行ってきました。この行事がいつから始まったのかという記録はありませんが、オオギという独特の漁具を使っていることからみても、相当古い時期から実施してきたものと思われます。
 オオギは、東南アジアに起源をもつ漁具で、今でもタイ、カンボジアなどではこれによく似た漁具が使われています。
日本国内では、八日市の芝原町に残っているほか、鳥取市気高町(けたかちよう)でも同じ漁具が使われていますが、ここでの漁は「ウグイつき」と呼ばれています。

 大沢の「総つかみ」の本来の目的は、溜池の底に溜まった泥を、魚つかみで大勢の人が歩き回ることで、水と一緒に流し出す、という「泥さらえ」です。昔から、総つかみを行わない3年間は、養魚池としての権利を落札で決め、その権利料を大沢の財源に充てていました。なお、この3年間も、落札した人が魚をとるために溜池に入ることで、泥を流すことができていました。

40年前頃までは、総つかみでとる魚は、大切な食材でした。オオギを使うのは1軒に1つと決められていて、ミスクイは、女性や子どもたちでも使うことができ、みんなで公平に魚がとれるようになっていました。

こうした伝統のある総つかみも、最近の少子高齢化などによって、昔のままで行うことが難しくなってきています。しかし、最近では、大沢以外の人たちにもオオギ漁を楽しんでもらっていますが、いろいろやり方を工夫し、オオギの作り方技術の継承も含めて、みんなで知恵を出し合い、「大沢の総つかみ・オオギ漁」を後世に伝えていきたいものです。

野村 しづかず