初代 堀井新治郎(元紀)

2代目 新治郎(仁紀)

(1856-1932)

(1875-1962)

創業のころの謄写堂

堀井謄写堂本店に改称

   (明治27年)

    (大正4年)

 発明当時の社会状況
 印刷術の発達は、文明のバロメーターと言うほどで異常な進歩を遂げたが、この発明までの我が国
の文書記録方法はもっぱら毛筆に頼っていたため遅々として進まず、複数的記録、ことに同文通信等
に多大な時間を要するだけでなく不便、非能率はなはだしいものであった。明治年代、西欧文明が潮
のように押し寄せ、文書事務は煩雑をきわめたが毛筆からペンにかえるようになってきて印刷機も輸
入され使用されたが、莫大な資本と特別な施設が必要であったため事務用としてはさらに軽便な簡易
印刷機が切望された。

 発明の発端
  発明の発端
 堀井父子はペンが普及することの確信と、複写法(当時芋版、蒟蒻版)によらず軽便印刷による方
法。すなわちインキローラによる転写の研究を進めた。原版作成にいろいろ苦心した結果、たまたま
複写紙の筆跡を透かしてみるとそれが白く見えたことに着想し、染め物の置型すなわち捺染法にヒン
トを得て、その紙型として我が国特産の強靱な繊維をもつ雁皮紙を応用し、これにロウを塗って原紙
とし、これの下に台版(ヤスリ板)を置き、鉄製の棒を使って任意に上から描いて記録する方法を採
ったのである。
 このような研究の成案がようやくできあがったとき、父元紀はさらに研究の資に供したいと思い、
子息新治郎を発明の完成に専念させ、みずから欧米視察の途についたのである。
 欧米では、主としてタイプライターを使用していたが、英国のゲステツトナー氏の歯車を冠するペ
ン先型筆と金属板によるもの、トーマス・エジソン氏(1847〜1931)の電気筆で穿孔するものなどが
発明されていたが、文字の構成を異にする我が国内では不向きなものであり、価格が高く軽便かつ大
衆向きではなかったが、東西ともに印刷機の必要を痛感するものが期せずして一致していたことを痛
感するとともに、欧米の高い文化水準をつぶさに見た結果、油断をしてはいけないことを感知し帰国
したのであった。

 発明者の略歴
堀井 元紀
 堀井新治郎の父堀井元紀は安政3年(1856)9月16日滋賀県蒲生郡竜王町に生まれ、内務省勧農局
出張紅茶伝習所に入り、滋賀県緑茶再製法伝習所を経て明治12年岐阜県御用係を拝命し輸出銘茶の
改良や県下蚕糸などの発達を図ったり、あるいは米質改良員等に歴任した。その後明治16年に堀井
家に入り数々の功績を残したが、軽便印刷機の必要を痛感し子息の新治郎とともに発明に没頭した。 
 明治30年5月大患を被り静養し、ついに同37年4月鎌倉に隠居し、昭和7年(1932)7月同地で
逝去。

堀井 仁紀
 明治8年8月13日滋賀県蒲生郡朝日野村(現在の蒲生町大字岡本)に生まれ、彦根中学在学中健
康を害して4ヶ年で退学し、三井物産函館支店に商業練習生となり商業学を専攻しながら英語を修学
していた。
 堀井家は旧家で代官をつとめ、また代々関東地方に醸造業を営んでいたが新治郎の厳父が若くして
死去した後醸造業も廃していた。その後元紀が入って養父となったものである。明治26年発明に志
して商社を退き、父子協力して軽便印刷機の発明に精進し明治27年発明が完成したので、「戸籍謄
本」という文字からヒントを得て「謄写版」と命名して発売した。その後、困苦欠乏の中、特許の出
願、改良、資金調達、宣伝販売を行ったが販路の拡張は容易ではなかった。しかし、時あたかも日清
戦争勃発となり大本営をはじめ陸海軍において軍事通信として本器を採用されることとなり、しかも
その効果は偉大なものとして多大の賞賛を受け、明治28年1月には莫大な注文を受けるに至った。
 その後、打撃印字の可能な「ミリアタイプ」印版紙の苦心の末の発明と、さらに輪転式謄写機の発
明により日本の堀井から世界の堀井に飛躍した。数々の発明と社会への貢献から昭和26年10月藍
綬褒章を授かる。大賞、名誉大賞については、120余個受領。昭和37年(1962)逝去。