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誕生日:2006.10.22 |

古代史最大の内乱、壬申(じんしん)の乱が672年(壬申)に勃発します。
この出来事は約50年後(養老4年(720))に書かれた『日本書紀』に見る事が出来ます。
全30巻の28巻目は壬申の乱の出来事がほとんどを占めており壬申紀と呼ばれています。
:【その時まで@】 【その時までB】 【その時までD】 【その時@】 【その時B】
その時B 近江の地で戦火勃発
672年7月7日 :息長横河(米原市醒井付近)の戦い
鮎さん:大友の朝廷軍を指揮する境部連薬は捕まって打ち首に処せられてしまいます。 |
:この地は水に恵まれていて、山の方にはニジマスの養鱒場があります。中山道が通る宿場町醒井で関が原からも近く大海人軍は正規の朝廷軍と一戦を交え勝利をえたわけです。 |
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672年7月9日 :鳥籠山(彦根市鳥居本付近の山)の戦い
:醒井で勝利した村国男依軍は更に琵琶湖の東を南下し彦根を少し過ぎた鳥居本付近の鳥籠山(とこのやま)に待ち構える秦友足(はたのともたり)と一戦を交えますが、またしても打ち破り秦友足は戦死します。 |
:鳥籠山(とこのやま)は、現在その名を見つけることは出来ません。「万葉集」にある淡海を詠んだ歌の枕詞として登場します。その歌には不知哉川(いさやがわ)と言う川も出てくるのですがこの名も今はありません。彦根の芹川ではないかと言われており、その近辺にある小さな山ですが、大堀山が鳥籠山(とこのやま)とする説が有力です。 |
672年7月13日:安河(野洲川)の戦い
:村国男依軍は安河(やすのかわ)で朝廷軍と三度戦火を交え大勝します。強いですね、村国軍は・・ |
:当時の野洲川はどの程度の水量だったのかな?7月中旬の暑い季節です。その年は大雨が降ったのでしょうか?空梅雨だったのでしょうか?・・矢を射って敵を混乱させ突撃体制で川を渡って敵陣に攻め込む大海人軍の様子が目に浮かびそうです。 |
:この付近の野洲川には横に近江富士(海抜432m)と呼ばれる三上山がそびえています。 |
672年7月17日 :栗太(栗東市)の戦い
:朝廷軍は大海人軍の南下を阻止するために要所に布陣していましたが、いづれも打ち破られ栗太(くるもと)まで後退してしまいました。大津京まではもう直ぐです。朝廷軍はもうこれ以上大海人軍を進めさせることは出来ません。必死の抵抗を試みたことでしょう・・。 |
:栗太は今の栗東市で旧中山道を南下すると名神インターチェンジ付近にきます。このあたりが戦場だったのでしょうか? |
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その時C 大海人軍攻勢、決着がつく!
672年7月22日 :三尾城の戦い、瀬田橋の決戦
:琵琶湖の東側を南下する大海人軍、一方では西側を南下する軍もあります。羽田公矢国(はたのきみやくに)の一隊は今の高島にあった山城、三尾城(みおのき)で朝廷軍と対峙し撃破しています。 |
:朝廷軍は総崩れの様相ですね!東側も西側も大海人軍は勢いついて、南下を続け、もう大津は目の前です。東側を行進する村国連男依軍は勢田に到着、瀬田を挟んで朝廷軍と向かい合いとなります。
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:朝廷軍は後方が見えないくらいの兵の数で、無数の弓を放ちます。でも、朝廷軍の智尊(ちそん)は瀬田の唐橋の中ほどの板をはずし敵を瀬田川に落とす作戦に出ますが、あっさり敵将の大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)に見破られ、大海人軍の兵は朝廷軍のいる大津側へ攻め入ります。朝廷軍は「あ〜無残・・・」といったところでしょうか?
総崩れです・・・ |
| 朝廷軍を打ち破って突進する敵将、羽田公矢国も大分君稚臣も大友皇子の従者だったそうです。こういう寝返りが出てくるような軍はだめでしょうね! |
672年7月23日 :大友皇子、山前の地で自害して果てる
:大友皇子はこれまでと、大臣や群臣達と共に逃亡を図ります。大海人軍はその行方を、必死に追います。 |
:大友皇子は逃げるにも四方を敵軍に囲まれています。かろうじて、山前(やまさき)に身を隠します。周りには物部連麻呂(もののべのむらじまろ)と数人の舎人だけ・・・
ここまでと悟った皇子は、その地で自害して果てます。25歳と言う若さでした。 |
:この山前と言う地が何処なのかははっきりしませんが、三井寺の前の長等山(ながらやま)と考えられています。大津の宮からほんの少し離れたところですね!逃げたという感じの距離ではなさそうです・・ |
壬申の乱終焉・・・・
:日本書紀では大友皇子は即位を認めていません。史実と一致しているのかどうかについては(各時代において)書記と史実とは必ずしも一致していないと主張する人が多くいます。
明治の時代になって政府は、大友皇子に「弘文天皇」という諡(おくり名)を与え、第39代天皇と認定しています。 |
| 大友皇子の御陵も定かではありませんが、三井寺境内の亀丘という円墳、長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)を御陵として祀ることとしました。(大津市役所の裏側にこっそりとあるそうです) |
大津皇子の首は大海人皇子のもとへ・・・
:大津皇子の首は関が原にある野上の本営で勝利を得た大海人皇子のもとへ運ばれたといいます。小高い山の斜面にある自害峰(じがいみね)といわれるところです。 |
大海人皇子が勝ったのは・・
@組織力や周辺の豪族への根回しなどを確実に行い、組織力を確かなものにしました
A大津宮へのアクセスをすばやく確保したことでしょう。
大友皇子が負けたのは・・・
@人心掌握ができず、身内の内紛や裏切りなど組織が成り立っていなかった
A九州の豪族が味方になってくれなかったことや機内の大豪族が味方したものの力を充分に発揮させるリーダーがいなかった |
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;天下分け目の戦い『壬申の乱』(672年)は大海人皇子の勝利で終焉しました。
約1000年後、この地でまたも天下分け目の戦い『関が原の戦い』(1600年)
が起こります。何故か、勝敗の背景が同じようなパターンではないかと思ってしまいます。
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鮒くん: 上へ
滋賀や近江や淡海・その時の気分で使っています。又、変な方言があるかもしれませんがご容赦願います!
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