歴 史 が 刻 ま れ た 身 近 な 場 所
 小脇郷「宿(しゅく)」村の名前の由来

   やはり、地元で生まれ育った人達には「小脇には頼朝が泊まった」ということや「 宿 (しゅく)」という村名の由来には、何か

 誇りに思っておられる方が居られるようです。

 それで、このホームページにも、私どもが住まう 「小脇町宿」という区自治会名の「宿」という名前の由来を掲載する

 ように御指導を頂きました。 個人的には、プライベートのHPに名称や場所を特定し得ることまで積極的には公開す

 る気はなかったのですが、なにかその様に言われるとエエ年をして、気が良くなるのか乗ってしまうという悪いところ

 があるのです。

   ところで、こうした村名は掟や法律に定められて定義づけられたということはありません。 ただ、古い時代の昔か

  ら地域の人びとから、「宿(しゅく)」というように呼ばれてきた名前なのです。 ですから敢えて、何で「宿(しゅく)」と言うようになった

 かについては大ざっぱな事しか判らず、歴史的な面からこじつけて述べるしかありません。


 

古来からの八日市周辺の街道
地域が活性・繁盛するには、道が集まって来て交わり、自動的に人が集まる事が必須条件なのです


                  蒲 生 野 宿 が 定 め ら れ た こ と

   先ず、第一に鎌倉時代から蒲生野宿が設置されたということが重要です。 鎌倉時代の小脇郷は近江国守護佐々

  木氏の居館が備えられ、その関係で東山道(中山道)には迂回路(武佐宿→蒲生野宿→愛知川宿)が設けられ蒲生

  野宿がこの地に設置されるなど蒲生野地域の中心地としての機能を集中していました。この蒲生野宿の比定地が

  かっての小脇郷宿村(現・小脇町宿集落)であり、街道・宿駅・市庭(場)という近接性がその存立の基になります。

  したがって、それより以前から出来ていたとされる八日市庭(場)も、商売の安全を保護してくれる守護職の小脇の

  居館や宿駅制度と補い合うような形を取りながらも繁盛を極めて行ったものと思います。


                    商 人 宿 街 化 し て い た 

   次の一つは、商売をする上での「宿(しゅく)」という用語があるのです。これは一般街道の「宿(しゅく)」とは区別され、「商人宿(やど)」と

  いう意味で呼ばれていたようです。 宿(やど)とは通常旅行者のための宿泊施設を差しますが、同時に「人々の寄りつどう

  場所」 という意味にも用いられます。 商人宿も単なる商人の宿泊施設ではなく、商人たちがそこに集まって商品の

  売買を行う場という性格を備えていたのです。

  こうした状態化は、上記「小脇居館」が設置される以前から存在していたのだと思います。 そうした繁盛している場

  所に佐々木氏は目を付けて居館を築いたものと私は思うのです。 これは後に織田信長がその手法を学び、軍事費

  等の増収を手中にすることにも繋がって行きます。


                市 場 (庭) に 近 接 し て 村 が 生 ま れ た

    『近江蒲生郡志』 『八日市市史』 では、この小脇(いち)の現地比定を行ってはいませんが、 一説では小脇郷宿集落

  (小脇町宿)の東北の筏川に沿って現存する「蛭子神社」跡の碑の付近ではないかとしています。 この地は夷さん

  (市神)が祀られていたところで商業に深く関連しているからです。

   この市庭は、定期市であり、後世のように街道沿いに常設店舗が建ち並ぶような景観ではありませんでした。市日(いちび)

   に商品を雨露から守る程度の粗末なにわか作り的な小屋が設けられていた位にすぎません。要するに、商売上人

   々が寄り集う場所としての「宿」であったのです。 そこに1軒家が建ち、自然と小さな村となり、宿屋を営む者も出て

   来て、その内、宿駅として指定されて行ったのです。

 
(※比定=同質のものがない場合、他の類似のものとくらべて、そのものがどういうものであるかを推定すること。「年代を―する」)


 
主は、八風街道 ・ 御代参街道 ・ 中山道(東山道)迂回路が交差していて必ず人々が集まった場所
(小脇郷の南側一帯は、『長森』と呼ばれ、終戦後頃まではうっそうとした原生林でした)




    こうした、複合的な要因である

       ・国(幕府)が指定した宿駅
       ・商人宿、商人たちが寄り集う場所
       ・市場に近接する場所

  等からして、鎌倉時代より「宿(しゅく)」と呼ばれるようになり、そうした条件が外れた状況後となってからも、人々は同じ様に

  呼び、かっての隆盛を極めた場所として村名の呼び名に残っているのです。




   尚、宿駅については言うまでもありませんが、国(幕府)の機関が日常動くに当たり、常時、馬 ・ 荷駄車 ・ 人夫(作

  業従事員) ・ 食料等々の備えが求められる訳で、ことに蒲生野宿にあっては小脇居館の分までも賄わなければなら

  ないという状態だったとされています。 と言うことは、相当に活気付いた状態の宿駅だったと思うのです。

終 わ り