信 長 ・ 千 草 越 え の 危 難 |
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義弟浅井長政の反旗 浅井長政の信長からの離反という信長の順調な進軍を一挙に掻き乱す異変が起きた。 元亀元年(1570)4月下旬、信長は朝倉義景の征討のため敦賀を攻め落として北進し、木ノ芽峠を越え、越前平 野に侵攻したその矢先、妹お市の嫁ぎ先の浅井が反旗をひるがえした。言い伝えでは、信長は妹お市が小豆を袋 に入れ、袋の口と尻を紐で縛った陣中見舞いの送り付けでそれをを察知し、突然、撤退を命じる鋭い決断をした。 信長軍はいったん京都に入らざるを得ず、朽木越えで敏速な退却戦を行った。この退却戦が、木下藤吉郎が殿軍 をつとめたと言われる有名な「金ヶ崎の |
千草越えの甲津畑村に入る |
甲津畑城主速水勘六左衛門宅(現・速水邸) |
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信長は、京都で体制を整え、5月9日2万の大軍を率いて志賀城(大津市)に入り、 湖西路の備えをし、12日勢 多(瀬田)の山岡景隆の城に入ろうとした。しかし、永禄11年(1568)9月12日(新暦10月26日)箕作山城・観音 寺城落城とともに姿を消してから1年8ヶ月後の元亀元年5月佐々木六角義賢(承禎)、義弼(治)父子と、 その残 勢力の影で江南は不穏の情勢下にあり、勢多城も留守中六角承禎側に占領されていた。信長は5月13日(新暦 7月2日)永原城(野洲市)に移り、佐久間信盛を守将とし、しばらく滞在した。 この間、日乗上人(朝山)と村井貞 勝が六角氏との和与調停をはかったが不調に終わった、と言継卿記は言う。 |
左は新道、右が新・千草越え (かくれ岩まで20分) |
現在の案内板 |
六角父子は石部城に居て、やはり2万ばかりの大軍を集結しており、東海道は封鎖されていた。信長は長光寺(近 江八幡市)に柴田勝家、安土山城に中川重政を配置し、自信は岐阜へ帰ろうとしたが、江北は浅井勢がおさえており、 ほかに帰路は無かった。5月19日(新暦7月8日)浅井勢が鯰江城(愛東町)に人数を入れ、市原(野)郷に一揆が呼 応し、八風街道を封鎖し、信長の通路をはばむ姿勢をみせた。この最中、日野の蒲生賢秀(氏郷の父)、布施藤九郎、 甲津畑の(速水)勘六左衛門らが働き、千草峠を越える信長を援護した。 |
ここに杉谷善住坊というものが六角承禎の意を受け、山中に隠れ、信長を狙撃 した。『信長公記』においては、 その距離12〜3間(約21〜23メートル)、鉄砲は二つ玉であったとしている。『パン、パーン』・・・ 玉は信長の 身体をかすったが運よくはずれた。 撃った善住坊は逃げ、信長の従者はこれを追いかけたに違いないが捕まら なかった。公卿の 山科言継の日記(言継卿記)には 織田弾正忠こうづはたにて、鉄放4丁にて山中よりこれを撃つと・・・云々、笠の柄これを打ち折ると・・・云々 と書かれてあり、危ういところであったが、信長は無事岐阜に帰城した。 |
写真の右半分が 「 かくれ岩 」 |
杉谷善住坊の隠れ岩 左写真の右半分の大岩が善住坊のかくれ岩です。 ここは、岩盤帯らしく対岸にも大きな岩があり、元々は繋が っていたのだと思われます。この岩陰に隠れて信長の通り を待っていたのでしょう。 杉谷善住坊は、三重県菰野郡杉谷村の者と言われて いますが、 甲賀五十三家の者、つまり甲賀忍者で、娘が 六角義賢の側室であったと伝えられています。又、この事 件以前には東近江市の太郎坊宮下の成願寺に居た記録 があります。 事件後は、鯰江香竹の手引きで高島郡で隠れているとこ ろを捕らえられ、岐阜に送られて取り調べられた後、首ま で埋められて首をノコギリで引いて切られたそうです。 |
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かくれ岩は川の左岸にあり、対岸である右岸が旧来からの千草街道の古道である ( ※注・川の右左岸は、下流に向かって右、左と定められています) |
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狙撃された時の信長の順路 右の案内板のとおり、現在は赤色実践が登山道 ですが、昔は赤色点線の、「かくれ岩」の対岸となっ ている右岸が旧来からの千種街道の古道だったの です。 丁度、上の写真中央の辺りを下から通り掛かったと ころを狙撃したのでしょう。「かくれ岩」の案内板から 目測12〜13間(21〜23メートル)の距離です。 対岸の少し上流となる「かくれ岩」の向かい側には大 岩がありますので、その上を通ることになり、上の写 真の対岸中央から若干川べりを離れる形で登って行 く道だったのだと思います。 |
案内板の接写 |
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かくれ岩前で渓流釣り 「かくれ岩」を撮影中に、下流の方からフライフィッシン グの渓流釣り師が釣り上がってこられ、かくれ岩の対岸 となる大岩の前にフライを投げ込みましたので、大岩の 位置を示す参考として撮影しました。この辺りは既に釣 り荒れていますので、なかなかの様でした。 |